ワナビー坊や→無気力おじさん→?

かつての自分を一言で表すならばワナビー坊やそのものだった。

「有名になりたい」「かっこいいことをしたい」といった願望にばかり目を向け、それが自分のあるべき姿と信じて疑わず己の頭で考えることを全くしていなかった。

その願望のまま就活。そして大企業に就職。

が、ここで問題が起こる。

仕事、めちゃくちゃ辛い。そりゃまあ多少は「大企業ですごい!」と言われることに喜びを感じるものの、そんなものどうでも良くなるくらいキツかった。

「出勤途中で車に轢かれたら休めるなあ・・・」的な思考が頭をめぐるほど鬱っちゃってた。

そして「やりたいことを仕事に!」という惹句に感化され退職。

しかし結局「やりたいこと」を真剣に考えることなく(そもそも深くまで考える能力も無かった)、「何となくかっこいい」くらいの理由でメディアに就職。

そんな吹けば飛ぶようなロジックであるため、当然転職先も楽しめるはずもなく、あっという間に退職。

これらの経験から「そもそも会社員は向いていないのかもしれない」と思うようになり、自営業への道を模索するようになる。

が、ここまで書いてきたことからも分かる通り全く計画性なく行動を移してきたため、なかなかに大変な毎日を送ることになった。

時には1ヶ月1000円生活という黄金伝説であれば優勝間違いなしという日々も過ごした。

この困窮は自意識の大幅な修正をもたらした。端的に言えば「俺は浅はかだった」ということである。今更かい。

とはいえ最初に入った会社に居続けたところで、楽しい毎日が送れるようになったとは今でも思えない。

「仕事は仕事」と割り切ることができれば何も問題はないのだが、自分はそうではないようだ。

ならばもう一度しっかりと「やりたいことは何か?」という自問自答を繰り返すべきであるが、不思議とそんな気は起こらないのである。

これはおそらくかつての貧乏生活が影響しているものと考えられる。

あの頃は毎日毎日、まさに明日飯があるかわからないという日々だった。

欲求レベルが「お腹いっぱいご飯が食べたい」に引き下がり、住んでいたマンションの隣が裕福そうな一軒家だった故に「家から出てくるの待って土下座すれば500円くらいもらえるかな」みたいな今思えばマジキチの思考を自然としていた。

このような日々の中で「有名になりたい」「かっこいいことをしたい」「やりたいことをしたい」といった願望は、非常に陳腐なものに映るようになったのである。

現在はかつてのような困窮状態ではなく、自営業でかつての会社員よりも高水準な生活が送れるようになったのであるが、それでも上記のような願望は陳腐なものという認識は変わらない。

かといって「衣食住足りておれば何もいらない」というような思考になることもなく、今のままの生活をずっと送るのも「何か違うなあ」と思案し続ける日々である。

「仕事は仕事」と割り切ることもなく、「やりたいことを仕事に!」と猪突猛進になるわけでもなく、しかしながら「何かが違う」と隘路にはまり込んでいる現状。

このような事態に陥っているのは、「俺は浅はかだった」という認識が芽生えたことによる。

だいぶ懐疑的な目線が世間的にも向けられるようにはなってきているが、「良い大学に行き、給料の良い会社に入る」という人生を歩みたいという人は今でも大勢いるだろう。

俺もかつてはそうであり、そしてその道を歩んだ。

しかしその道を進んだことによって幸せを感じる事はなかった。

その代替的な生き方として「好きを仕事に!」に類するライフスタイルを信奉するようになった。

その結果どのような目にあったかは上記の通りである。

ここまできて、自分で生き方を決めていたようで全く決めていなかったことに気づく。「俺は浅はかであった」と。

結果、己の頭で考えに考えたことを生き方の軸とすべきと考えるようになった。

どれほど崇高や理想に思えることであろうと今は疑ってかかるべきであると。まあもちろん参考にはするのだけれど。